映画「日本のいちばん長い日」のあらすじをまとめてみた | 日本一のブログ

映画「日本のいちばん長い日」のあらすじをまとめてみた

日本のいちばん長い日

映画「日本のいちばん長い日」は、半藤一利(はんとうかずとし)が1965年に書いた『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』というノンフィクション作品をもとにした映画作品です。

書籍は1965年の初版時は文藝春秋新社から大宅壮一編という形で出版され、半藤一利名義では1995年平成7年)6月に文藝春秋から『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』として出ています。

この本が出版された当時、半藤が文藝春秋新社の社員だったことから名義は大宅壮一編となったようです。

映画はこれまでに2回作られていて、岡本喜八監督が1967年に東宝から、原田眞人監督が2015年に松竹から配給する形で制作しています。

岡本喜八バージョンと原田眞人バージョンを主要キャストで比較すると以下のようになります。

阿南惟幾(陸軍大臣) : 三船敏郎
昭和天皇 :松本幸四郎(八代目)
鈴木貫太郎男爵(内閣総理大臣): 笠智衆
迫水久常(内閣書記官長): 加藤武
畑中健二少佐(陸軍少佐、軍事課員): 黒沢年男
阿南惟幾(陸軍大臣):役所広司
昭和天皇:本木雅弘
鈴木貫太郎男爵(内閣総理大臣): 山﨑努
迫水久常(内閣書記官長): 堤真一
畑中健二(陸軍少佐、軍務課員):松坂桃李
岡本喜八監督は「この戦争で300万人が死んだ」という文言を作品最後に載せることにこだわったと言われています。
また昭和天皇ご本人もこの映画を観たということでも当時話題になりました。
昭和天皇の在位中の作品ということもあり、昭和天皇役の松本幸四郎のクレジットはパンフレットに記載しないなどの配慮がなされました。
1967年版と2015年版を見比べるのもいいかもしれません。

映画「日本のいちばん長い日」のあらすじ

物語は最後の陸軍大臣と言われる阿南惟幾(あなみこれちか)を中心に、大東亜戦争(太平洋戦争)終結までの関係者の葛藤(本土決戦か降伏か)を描いた作品です。

実際の最後の陸軍大臣は下村定。

戦争が終わる年、昭和20年4月7日に第42代内閣総理大臣に任命されたのが鈴木貫太郎です。

鈴木は連合艦隊司令長官、海軍軍令部長を歴任するなど軍人としてキャリアを積んできた立場で、軍人は政治に関わるべきではないというスタンスのもと、総理大臣に周囲から推される声にも辞退すると要請をつっぱねていました。

ただ昭和天皇じきじきのお言葉、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」を受けて、総理大臣の就任要請を受けることを決意しました。

当時すでに77歳と高齢だったことも固辞していた原因だったかもしれません。

国会議員でもない人間の珍しい総理大臣就任、また江戸時代生まれの最後の総理としても認識されています。

鈴木貫太郎の最初の難しい仕事として組閣をどうするか、とりわけ陸軍大臣を誰にするかというところが一番の肝となっていました。

大雑把に説明すれば、戦争末期にこのまま戦争を続けて本土決戦になろうが最後まで戦い抜くという一派と、早期戦争終結してなるべく国民の被害を最小限に抑えるという降伏をすすめる一派のギリギリのしのぎ合いを描いた作品ということになるかと思います。

つまりこのまま戦争に押し進もうとする軍部に対し、和平を求める天皇陛下が信頼のおける鈴木にその意向を託し、一番重要な陸軍大臣にこれまた天皇陛下に忠誠を誓っている阿南を据えることで軍部の反発をおさめようとしたというのが大まかな流れ。

ただ軍人として降伏という選択には納得のいかない阿南惟幾、本土決戦派と降伏派の板挟みになって、どう治めればうまくいくのかの葛藤の中、最後は自決することが解決につながると信じたのか、単にその道しか選択肢がなかったのか、そこは観る人の感じ方にもよるかと思います。

映画「日本のいちばん長い日」のストーリー詳細

鈴木貫太郎の前の第41代内閣総理大臣は小磯國昭、その前の第40代内閣総理大臣は東条英機で共に陸軍大将を務めた人物。

特に東条内閣はサイパン陥落など戦況が悪化してきた責任をとっての総辞職だったことから、全体的にそろそろまずいのではという空気、和平という言葉が出てくる時期だったことは否めないと思います。

ただ降伏や和平という言葉を口にする雰囲気ではないのも事実で、そこで天皇陛下の信頼もあり、侍従も務めたことのある阿南惟幾に白羽の矢が立ち、なんとかうまく取りまとめてほしいという意図があったと思われます。

鈴木貫太郎が前陸軍大臣の杉山元を訪れた時に、青年将校らが納得できる条件として3つあげていました。

  • 大東亜戦争の完遂
  • 陸海軍一体化の実現を約束する内閣の組織化
  • 陸軍の企図する施策を実際に躊躇なく実行すること(本土決戦に勝利するため)

鈴木はこの条件を表面上は呑むことで、そのまま阿南に陸軍大臣を要請、直接三鷹にある自宅を訪ねています。

阿南の娘はちょうどその頃婚約したばかりで、披露宴をどうするかなど話をしていました。

阿南の二男である惟晟(これあきら)は二十歳の時に戦死していて、親心としては戦時中であれど披露宴をしてあげたい気持ちであったようです。

アメリカのフランクリン・ルーズベルトは1945年4月12日に死去、ドイツのアドルフ・ヒトラーは同4月30日に亡くなっています。

5月25日には東京大空襲で皇居宮殿と海軍省が焼失。

陸軍大臣と海軍大臣を交えて戦局に対する懇談の機会が設けられましたが、話はまとまりません。

ようやく6月8日の御前会議で、本土決戦の勝利をもち戦争終結の道筋を開くと、決議されましたが、現実は兵器や物資も底をつきかねない状況で、勝ち目があると考える人は少なかったのではないでしょうか。

この時の「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」と強い鈴木の言葉は、東條英機ら戦争継続派に対する鈴木の終戦工作の偽装とも言われています。

6月22日に、御文庫地下防空壕で鈴木貫太郎ら閣僚と、昭和天皇が参席する懇談が開かれる。

立場上はっきりと終戦や和平という言葉を使えない天皇陛下の気持ちを察して、鈴木が代わりに和平に向けて動いていくというのがストーリーの肝となります。

  • 7月26日にイギリスとアメリカ合衆国、中華民国の政府首脳の連名でポツダム宣言が発令。
  • 受諾するしかないという鈴木の意見に対し、国体護持の確証がないのなら、拒否すべきという阿南の意見
  • 結局鈴木が政府の方針として静観か黙殺と発言し、この黙殺がアメリカに伝わったことで広島原爆のゴーサインになったという見方も(reject(拒否)という単語で英訳された)
  • ソビエトに和平交渉の仲介の望みを託すも裏切られ、ソビエトはポツダム宣言を追認
  • 総辞職を迫られる鈴木はこの内閣で戦争終結を迎えると拒否
  • 天皇にポツダム宣言の内容に関する報告がなされる
  • 迫水久常は、天皇が受諾の意向であると確認
  • 総理秘書が戦争最高会議に閣僚を招集し、だまし討ちの御前会議で天皇の聖断を仰ぐシナリオを描く(賛成反対を3:3にして最後天皇陛下に決断を仰ぐというもの)
  • ある意味反則技のような力業で和平に向かうことへの懸念に対して大元帥命令で軍を抑えるという鈴木
  • なにかあれば鈴木自身が死を持って全責任を負うという決意を表す
  • 海軍省、陸軍省ともに和平には反対
  • 戦争最高会議において無条件降伏の受諾か、条件付きで受諾かで意見がわかれる
  • 国体護持の確約と、自国の手による武装解除という点で譲れない阿南
  • そんな中長崎に原爆投下の知らせ
  • 話がまとまらず鈴木が天皇に助けを求める
  • 「自分の名によって始められた戦争を、自分の本心からの言葉によって収拾できるのなら、ありがたく思う」という天皇のお言葉
  • 陸軍では決起案(クーデター)が出され、戒厳令を敷いて軍政権の樹立を目指すというプランが
  • 阿南は最後まで「国体の護持」「保障占領」「日本自身による武装解除」「日本による戦争犯罪の処分」この4つの確約にこだわります
  • 当初の目論見通り意見は真っ二つですが、一刻の猶予もならないということで天皇に聖断を仰ぐ
  • 「自分には祖先から受け継いだ、日本国を子孫に伝える使命があり、1人でも多くの日本国民に生き残ってもらい、将来立ち上がってもらいたい」という天皇のお言葉でポツダム宣言は受託の方向へ
  • 東条英機が天皇陛下を謁見の上、ポツダム宣言受諾反対の奏上
  • 陸軍内部も陸軍省を担ぎ出そうとする決起派と、陸軍省も含め内閣をつぶそうとする過激派に別れる
  • 8月11日畑中健二陸軍少佐らが三鷹の阿南の家にやってきて警護にあたるという(和平派による暗殺などを恐れ)
  • 連合国からの天皇に対する処遇の和訳に解釈の違いが生じる(制限の元とするか、隷属するとするか等)
  • 国体護持を確信する天皇は避難せず
  • 陸軍大臣、参謀総長、東部軍司令官、近衛団長の承認を得ることを条件としたクーデターの話が進むが完全な同意は得られない

後半最後の方はいわゆる宮城事件(きゅうじょうじけん)と呼ばれる一部の陸軍省の将校と近衛師団の参謀が中心に起こしたクーデター未遂事件がもとになっています。

当時33歳だった畑中健二陸軍少佐らがなんとか日本の降伏(ポツダム宣言受諾)、玉音放送を阻止しようと宮城(皇居のこと)を占拠した事件のことです。

その前の日、14日の閣僚会議の段階でそこに押しかけて、和平派の要人を監禁し、陛下に受諾の変更を迫るという案もあったようですが、阿南が吉積軍部局長に嘘の電話をして踏みとどまらせた経緯が映画では描かれています。

会議で和平が多数だったのをその逆だと伝え、受諾の意向がくつがえるように匂わせて時間を稼ぐというもの。

8月14日の御前会議で「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。明治天皇の三国干渉の際の苦しいお心持ちをしのび、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、将来に期待したいと思う」と述べられます。

これで完全に受諾は決定、阿南は陸軍省に戻ってその言葉をクーデターを企んでいる将校たちに聞かせます。

納得せず阿南に詰め寄る将校たちですが、もしいくなら自分を斬ってからにしろとすごみます。

畑中は、近衛師団司令部へ赴き、東部軍司令官らに、クーデターの協力を頼むも逆に叱責される始末。

あきらめずに玉音放送までの残りの時間が勝負だと椎崎二郎を説得し、クーデターを進めることに。

一方総理官邸では、終戦の詔書の審議が行われて「戦勢日に非にして(日ごとに劣勢になり)」を「戦局必ずしも好転せず(必ずしも持ち直したとは言えない)」に変更するなどの最後のせめぎあいが行われます。

23時25分に、天皇が宮内省に着き、玉音放送の録音を始めて、翌8月15日未明終えて、2枚の玉音盤が侍従に託されました。

阿南は最後に鈴木の元を訪れ「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪したといいます。

その際南方第一戦から届けられた葉巻を鈴木貫太郎に渡しています。

傍にいた迫水に鈴木は阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」とつぶやき阿南を見送ったと言われています。

暇乞いとは別れの挨拶のこと、この時すでに腹を切る覚悟ができていたことを示唆します。

そして近衛師団司令部では畑中の暴走が止まらず、深夜1時すぎになって森師団長を銃殺、白石中佐を窪田少佐が斬り殺ろすという暴挙に出ます。

指令書に師団長の印をむりやり捺印して偽装し、城内警備司令所を通し各部署に、玉音放送関係者を拘束し捕虜にするよう伝えます。

阿南は当初次男の命日である8月20日に自決する考えでしたが、それだと遅いと父親の命日の14日にしたのだそうです(実際は日が明けて15日ですが)。

クーデターの方は結局陸軍首脳部・東部軍管区の説得ができず、椎崎中佐と畑中少佐が、二重橋の見える広場で自決するという結末。

玉音放送も無事に流されました。

阿南惟幾の方ですが、朝方5時半に自刃、7時10分に絶命となっています。

自決する前には義弟の竹下正彦中佐、井田正孝中佐と3人で酒を酌み交わし、宮城事件についても結局知ることになります。

ただ阿南は「東部軍はたたぬだろう」とクーデターについてはおさまるから問題ないと予見していたようです。

15日の正午に玉音放送ですから、それを聞かずに阿南は亡くなったことになります。

阿南の遺書には「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 花押 神州不滅を確信しつつ」と書かれ、「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」が辞世の句となっています。

映画「日本のいちばん長い日」の評判等レビュー

ネット上では岡本喜八バージョンの方が人気があるように感じます。

 

考証、設定、解釈の部分で色々指摘が出てしまうのは、どんな映画を作っても当然です。あの原作を平成の視点で、このレベルまで描き切った事については、原田監督の力量が大きく発揮されていると思います。これはこれで平成版としての良さがあり、また岡本版と比較しても意味が無い。別の映画ですから。松坂桃李の存在感が、役所広司を上回ってしまったのは意外でした。

引用:アマゾン

2015年版では松坂桃李さんの演技力が評判のようです。

これは相当,難解な映画になってしまっているのではないでしょうか。
登場人物がどういう人か,当時の状況がどうなっていたか,
かなりの予備知識がないと,誰が何をしているのか全く意味不明かもしれません。
その程度のことは国民の基本として知っておくべき,というメッセージかも!?

引用:アマゾン

登場人物の相関図など事前に予習しておくと観やすい映画かもしれません。

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